hatomi blog

つれづれ

インテリア

これまでの人生で特にどんな家具に囲まれて暮らしたいか考える必要が特になかったので考えていなかったのだが、実は今おしゃれだと思われているモダンデザインよりも、ミッドセンチュリーモダン的な少し古臭い、あるいはもっとロココ調みたいなソファとかのほうが好きかも知れない、と思った。

先日、六甲ミーツ・アートというアートイベントにお邪魔させてもらったときに神戸に初めて行って、「にしむら珈琲」という神戸ではどうも有名らしいお店に入ったら店内がいわゆる洋館風、それも大正レトロ的な世界が広がっていてけっこうびっくりした。

びっくりしたが、そこにたくさん置いてあった揃いのテキスタイルでまとめられたロココ調のどっしりした椅子がどれも素敵だった。喫茶店の椅子なのでそれなりにいつぞやのコーヒーのしみのようなものがたくさんついているし、傷んでいるのだが、それも含めて一体感を醸し出していて、それでいて360度を関西弁に囲まれて座るというのは関東圏からほとんど出たことのないわたしには新鮮な体験だった。絵に描いたみたいに関西弁でノリツッコミを繰り返す女性が隣の席に座っていて、こういう話し方をする人が実在するんだ、と、少しカルチャーショックを受けた。いや、お酒の席とかなら普通かもしれないが、ケーキをつついていたからか、あるいはシックな織物のインテリアに囲まれていたからそう思ったのか判然としない。

残念ながら天候に恵まれず滞在時間は短かったが、国内でも、すこし移動するだけで見たこともないような気分になる出来事にたくさん遭遇するのだとちょっとビビって帰ってきた。一定の走行音が絶えず聞こえるせいで普通とは違った静寂に包まれたように感じる新幹線が、いつ乗ってもあまりどこにも連れて行ってくれるわけではない気がしていたのが、今回の旅行はどことなく、遠くて違う世界に穴を空けて発射されたような印象で帰ってきた。

 

 

最近全然忘れているけど前はよく耳にした「作品の強度」について

 作品を作るときの具体的な経験について思い返していてありありと思い浮かべるのは、モノとして作ることになるとどうしても最初のアイデアでは思い浮かばなかったような細部についての選択も強いられるということだ。

 よい例ではないかもしれないけれども、例えば正面から見たら椅子だけど反対側から見たらテーブルに見える、という作品(いかにもつまらなさそうな作品だ)を作るとしても、じゃあ左右はどうなっているんだとか椅子は椅子でもどんな様式の椅子にするのかとか大きさや展示空間との関わりはとか、物理的に存在させなければならない段になって突然色々と決めなければいけない項目が増える。このときに大量生産消費社会についての言及も含むからいかにもIKEAで量産されているデザインを採用するとか(ますますつまらなさそうな作品だ)はっきりとその作品によって表現したい方向を意識して選択することもあれば、なんとなく手を動かしているうちにそうなってしまったといか言いようがない決定も積み重ねられて作品は一応の完成となるだろう。

 一度作品として提示されたからにはその大まかな印象と細部とを行き来しながら他人に見られることになるが、このときに細部において重ねられている決定にブレがあることを「強度がない」とか言うのではないかと思っている。つまりコンセプトとフォームとしてはAを批判しているのに細部においてはAを無視して作品が成立しているとか。なんとなく作品を一人の人格としてみなした時に統合されていないような印象をうけ、それも自覚なしにそうなっている場合のことを「強度が足りない」みたいな話だという理解で概ね間違いないのではないだろうか。違うニュアンスで使用されることも当然あるとは思うが、だいたいのところは細部と本論とのブレが極力解消されている努力が見られるかどうかに「強度」の有無が関わっていると言えるだろう。

 「強度」というと主張している内容の強さや価値のような印象を受けるが、どんなにくだらない内容をどんなに小さくそっと主張しても当然傑作になりうるのだからそうではないはずだ。

 細部に関する決定を本論にブレなく次々を行っていく、というのはいかにも冷静に一歩離れた立場から検討していくことを求められるように思えるが、むしろその逆である場合が多いと思う。子どもが一人遊びで何もないところを指差してここが玄関でここに靴を脱いで、ここにドアがあって・・・と次々と世界を構築していくようなある種の盲目的な見立て行為が作品を作るプロセスの中にあった痕跡があると、細部に渡って一貫した「強度」が保たれていくのではないだろうか。少し没入しすぎて普通の見方がいったんできなくなった状態で「見立て」の遊びを展開しなければ扱えないほど、物質的に存在するモノはいつも人間の手の思い通りにはいかない、ということかもしれない。この文章で想定しているのは絵画や彫刻などの実在するメディウムだが、コースコードで構築されるようなものでもある程度は同じような部分もあるのではないだろうか。

 なんとなく「強度」というジャーゴンを聞かなくなったので思い出してみた

 

 

 

もやもやすること

今日、あまり普段話さない人たちと作品とかの「理解」の話になったときに

「わかりやすすぎる」こと(メディアとか)の危険性みたいな話とか

良いと感じる作品こそ モヤモヤが残る、どう説明してよいか分からない という会話になった。

 

正直言って人見知りが発動しまくっていて、その時に

 

ソンタグは『反解釈』では作品の内容理解(解釈)することの下らなさ、低俗さを説いていたり『ラディカルな意志のスタイル』では形式にこそ意味が表現されているっていう話をしてたりするし、それってちょっとマクルーハンが話していることにも似てるよね!!!??

 

という話をできなくて、帰り道に、ああ、うまく自分が考えたことがすんなり喉を通らなくてつらいな、恥ずかしいなと思った。

 

もしソンタグ?ってされたら一から説明する力量が自分にないっていう自信のなさがそうさせるんだろうなあ、あるいは、ソンタグはそんなことは言ってないんじゃないっけ?ってさせたときに反論したり?する自信?とかがないからなんだろうか?とか。

 

でもまあきっとこうやって振り返ることができたことは、そのうち出来るようになるはず。

寝る前に恥ずかしくって布団に頭をドカドカやる思い出が今までも数千個あるところに一つ増えただけじゃないか。

行き来すること

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「環世界」というのは例えばネズミからしてみたらヘビをみれば危険だと判断して逃げ出し、捕食できるものをみつければそれに反応する、というような生きていくために取り囲まれている「世界」をどう眺めているかということだったと思う(今手元に何も文献がないけど『構造と力』にもそういう記述が最初にあったはずだ)。

 

それがネズミだったら「生きていく(死なない)」ことや「繁殖する」ことのための地と図の世界が広がっているわけだけれども、我々は状況によっていくつかの環世界を行き来するのではないだろうか?というはなしを昨日かおとといできて、面白かった。

 

それは例えば私の実感することであれば、勤務している業種によって覚え・聞き取れるようになるべき用語が変わっていくこと(もとの分野と関係のない就職をした時にとても感じた。鉄道用語を覚えまくったらあっという間に芸術分野の知識を忘れた)だったり、あるいは人を見ていて感じるのは複数の都市に暮らしたことがある人は危険だと感じる状況がそれぞれの街にローカライズされている。暗くて人気のない道が危険な街、そうじゃない街・・・。(まあそれは「生きる」ことに直結するが)

 

本棚を見ているような状況でも、何も見出すことのないタイトルの羅列に感じた後に

とある本を読んでから改めて眺めると、その本に参照されている文献だらけであることを発見するような

 

あるいは、駅で働いているときに感じたのは自分と異なる身体で動いている人々にとっての「図」はそこにエレベーター(あるいは目で見えないしるしや、逆に段差などわたしが普通に過ごしているときには気にも留めないものたち)があるのか、ということによって構成されている、ということだ。

 

でも意外と、実感を伴わなくてもある程度状況を推し量って想像することで他人の身体の環世界を垣間見ることもできそうだとも思う。

人によってそれぞれではあるけれども、何をポイントとするのかヒアリングしてから自分が熟知した駅についてどう移動するのかを検討するのは環世界の行き来にほかならないと思う。

 

 

身体の自由度が落ちた結果、移動性が損なわれたことについて

工夫のしようについて学ぶ機会であると同時に 今までと違った身体を得たと思う面白さがあるという言い方をしていた人を思い返す。

その前向きな勇気に心を打たれる

同時に、そう思えず、ただ一貫して困難さに見舞われていると思わざるをえないように人工物は設計されていることも何をみるにつけ考えさせられる

 

 

 

 

意外な出会い

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ヨーロッパのいくつかの国をめぐる旅行に出かけてきて、意外な出会いを得たので書き留めておく。

まず偶然に、いつもは格安航空券の中でも短いフライト/長いフライトで済む中国乗り換えを使うのだが、色々な都合で今回アブダビ空港で乗り換えになった。

 

UAEアブダビ。旅客機を降りた外気は41度、メガネが一瞬で曇った。

 

そこで長い乗り換えのための待ち時間を過ごしているあいだに、色々なムスリマイスラム教徒の女性)の服装の人々を見かけ、また、家族で待ち時間を過ごしている様子を身近に見て なんだかとても興味が湧いてきた。

 

待ち時間はとても長いので眠気につきあって短く眠ったあと、よい読み物のウェブサイトをみつけた。

 

muslimnewspaper.org

 

このページの中にある、中田香織 著作物>>『イスラムの息吹の中で』というページからハビーバ中田香織さんの書く美しい文章を読むことができる。

 

なんとなくぼーっと読み始めて、彼女の飛び込んだムスリムの世界の美しさなのか彼女自身の魅力なのか、文才なのか(全部だと思うけど)に触れて驚いた。とても素晴らしい文章なので誰かに勧めたくなった。

 

そもそも気になったのはアブダビ空港ですれ違う女性たちの身につけるヒジャブやゆったりとしたシルエットに優雅さを感じたからだった。

また、ブルカと呼ばれているであろう目だけが見える装いの中がどうなっているんだろうか?という興味で少し調べたら彼女の文章に出会ったのだった。

 

検索して最初に読んだ文章がこれです

muslimnewspaper.org

 

 

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最近、よく資本主義経済に巻き込まれて人間性を失っておかしいという自己(の所属する社会)批判を口にする人に出会うけれども、世界中で二番目に信者の多い宗教がこのような超近代化して人間を疎外するような状況に抗う構造になっていることはとても興味深いと思ったのでした。

もちろん原理主義ムスリムムスリマでなければ柔軟に資本主義経済に巻き込まれた働き方をしている人も大勢いるということは 国際空港で働いている人々を見ていれば分かるのですが。

 

 

 

英語学習の道具

ボチボチ英語勉強してます。TOEFL-iTPのための勉強をしていた頃はそれなりに楽しかったのですが、そのスコアを使った試験が失敗に終わり、その後も色々あり、モチベーション的にも勉強を続けることの難しさがあるなと思ったり

 

ところで英語学習にはリスニングのためのCD再生が欠かせません。

時々今ではアプリでインストールするとかもありますが、90%以上の参考書がCDを採用していると思います。

 

英語学習のための色々なCD再生方法について

ポータブルCDプレーヤーで英語学習CDを聞く

最初にTOEICの勉強を始めたころ、音楽はスマホアプリからしか聞かないためにパソコンからスマホへの音源転送方法が無く、CDプレーヤーで再生していました。

 いわゆる↓こういう、普通の昔ながらのものです。

メリット:

・とにかくCDを再生するまでの手間が楽!!

・例えば参考書を買ったその足で入った喫茶店で勉強が可能

スマホの通知に気づかずに集中できる

・電池式のものなら充電を気にせずOK(単3電池とかなので、出先でも調達可能)

 

デメリット:

・荷物が増える

・意外と「キュイーン」みたいな音がしてうるさく、静かな図書館とかだと気になる

・お風呂の中に持ち込み不可。スピーカーつけて防水カバーを買えば別ですが、スマホの楽さの比ではない。

・例えばお風呂で復習のシャドウィングだけしよう、とかが困難

・イヤホンの他に手頃なスピーカーを持っていないと、本番に似た環境(スピーカーで聞く)ができない

・音源の途中でちょっと戻ったりするのができない

・色々な参考書を並行して使用しているとCDも持ち歩く必要がある

 

・・というわけでCDプレーヤーは実家から掘り出してきたものを使用していたものの、デメリットが勝り、辞めてしまったわけです。

 

次の手段

ポータブルMP3プレーヤーで英語学習CDを聞く

メリット:

スマホの通知に気づかずに集中できる

・機種によっては速度調節も可能

・機種次第ですがスマホより音源転送は楽な場合が多い

 

デメリット:

・荷物が増える

・充電しなければならない

・音源を転送する手間は必要

・CDプレーヤーと同じくスピーカー内蔵じゃないからできないことがいくつかある

 

ということでけっこうこれは良かったのです。が、ちょっと試しに家族にレンタルさせてもらっていただけだったので購入に至らず。

というのも、音源を転送するならスマホでいいと思ったからです。

 

普段から使っているスマホで英語学習CDを聞く

 

bluetoothイヤホンも使えるし・・・結局今はこれが一番。と思っています。

メリット:

・何か持ち歩く意識なくどこでも聞くだけの学習ができる

・スピーカー内蔵なのでお風呂の中とかでもカバーをかけて再生可能

・プレイリストに整理しておけば見やすい

・速度の調整もアプリを使って可能

 

デメリット:

・連絡の通知が気になる

→マナーモードにしてイヤホンで聞くと一応通知音は聞かずに済みます まあ目に入ってしまいますがどうしても

・音源の転送が面倒

→しかし簡単なソフトを発見したのでここに紹介しておきます

私の場合はwindows PC→iphoneという環境でこのソフトを使用しました

 

iPhone・iPodアイポッドの音楽をiTunesへ転送

 

どこかのブログで使い方も参考にさせてもらいました。無料機能で転送できます。

 

 

以上、今回は英語学習に欠かせないCD音源をどのように聞くか?という内容でした。

これから英語学習を始める方にも、今の環境を検討している方にも参考になれば幸いです。

私も、あまりに集中できなくなってきたらポータブルMP3プレーヤーに音源を入れてスマホを家に置いて勉強に出かけるようにしたいと思っています。

とても集中できるらしいですよ

 

 

完全に夏になりました

更新が滞ってしまいました。

文章を書くのは好きで、ブログも、ブログという言葉が登場する前からテキストサイトの運営や「えんぴつ」、最初の頃のはてなダイアリーなどなどで書き散らしてきた世代ですのでどんどん書きたい気持ちはあります。

さて、まず英語の話からでも

TOEIC、5月の新形式の結果は800点でした。

手応えは別に良くも悪くもなかったものの、それなりに勉強していたので、アレッて感じで、よく言う、すぐに600点から900点になる!等という話から考えると全然ダメじゃん・・・ という感じでがっかりです

でも実はようやく文法が伸びはじめました。

やっとLが450のRが350とかになりました。

文法、勉強法が定まらなくて泣きそうになってたのですが、最近ようやく続けて使えている参考書があるので貼っておきます。

この2冊です。

え、TOEFLと基礎英文法なんてTOEICに関係なさそうと思われるでしょうが、確かにTOEIC対策のために開いたわけではないものの、

この本を進めることによって私の一番苦手なPART5とPART6が随分改善されました(当社比)。

特に基礎英文法については大五文型とかの文法解体から始まって、仮にも実践的なビジネス英語を勉強するためのTOEICとどう関係あるのか分からないと思うのですが

私の場合に限って言えば、長文やちょっと複雑な関係代名詞の解体した読み方がさっぱり分からなかったのがこの本を丁寧にネチネチやることでずいぶんスッキリしてきました。

 

振り返ればこれまでの英語学習人生、英語は高校までまあまあ得意だった気がするけど、自分でコツコツ基礎的な学習をしてこなかったから 貯金が無いってことに気づいたっていう感じでしょうか。

やりなおしの言語学習はこれまでの貯金をアテにしたものが多いですが、無いひとは、0からコツコツやるしかないですね。

まあでも、できないことはなさそうです。がんばろ~~~