hatomi blog

つれづれ

行き来すること

f:id:yanha:20170918233757j:plain

「環世界」というのは例えばネズミからしてみたらヘビをみれば危険だと判断して逃げ出し、捕食できるものをみつければそれに反応する、というような生きていくために取り囲まれている「世界」をどう眺めているかということだったと思う(今手元に何も文献がないけど『構造と力』にもそういう記述が最初にあったはずだ)。

 

それがネズミだったら「生きていく(死なない)」ことや「繁殖する」ことのための地と図の世界が広がっているわけだけれども、我々は状況によっていくつかの環世界を行き来するのではないだろうか?というはなしを昨日かおとといできて、面白かった。

 

それは例えば私の実感することであれば、勤務している業種によって覚え・聞き取れるようになるべき用語が変わっていくこと(もとの分野と関係のない就職をした時にとても感じた。鉄道用語を覚えまくったらあっという間に芸術分野の知識を忘れた)だったり、あるいは人を見ていて感じるのは複数の都市に暮らしたことがある人は危険だと感じる状況がそれぞれの街にローカライズされている。暗くて人気のない道が危険な街、そうじゃない街・・・。(まあそれは「生きる」ことに直結するが)

 

本棚を見ているような状況でも、何も見出すことのないタイトルの羅列に感じた後に

とある本を読んでから改めて眺めると、その本に参照されている文献だらけであることを発見するような

 

あるいは、駅で働いているときに感じたのは自分と異なる身体で動いている人々にとっての「図」はそこにエレベーター(あるいは目で見えないしるしや、逆に段差などわたしが普通に過ごしているときには気にも留めないものたち)があるのか、ということによって構成されている、ということだ。

 

でも意外と、実感を伴わなくてもある程度状況を推し量って想像することで他人の身体の環世界を垣間見ることもできそうだとも思う。

人によってそれぞれではあるけれども、何をポイントとするのかヒアリングしてから自分が熟知した駅についてどう移動するのかを検討するのは環世界の行き来にほかならないと思う。

 

 

身体の自由度が落ちた結果、移動性が損なわれたことについて

工夫のしようについて学ぶ機会であると同時に 今までと違った身体を得たと思う面白さがあるという言い方をしていた人を思い返す。

その前向きな勇気に心を打たれる

同時に、そう思えず、ただ一貫して困難さに見舞われていると思わざるをえないように人工物は設計されていることも何をみるにつけ考えさせられる