「最後だとわかっていたなら」本当にそうする?
別に曲を聞いたわけではないのですが、ニュースをふと見ていて、気になったことを書きます。
とある歌手の方がある程度有名な詩の日本語訳を歌っているよという内容です
そのある程度有名な詩というのが息子さんを事故で亡くしたアメリカ人女性
がかいたという詩です。下記に全文がありました
もちろん突然に最愛の人を亡くすことは辛いことだし、なかなか乗り越えられることでもないと思う。
できればそういう出来事が誰の身にもふりかかなければ良いのにと思う。
と、いうことはもちろん思った上で一つ考えたいのは
この歌詞が強調するように「最後だとわかっていたなら」することを
本当にするだろうか?ということ
というのも、突然の事故死が辛いのと同じように、ほとんど希望を持つことが難しいとわかっている病気になってしまった身内を見守り、そしていずれ見送るということも同じように辛いからだ。長生きするのはかなり厳しい病気であることがわかったときにそれを本人とどう分かち合うかということはとても困難だ。
がんが長らく宣告されない病気だったということからも、その難しさは分かるだろう。
先述の詩ではこう歌われているはずだ
If I knew that this would be the last time I would hear your voice, I’d take hold of each word to be able to hear it over and over again.
私は最愛の身内の声を聞いたり笑っているところがこれが最期かも知れない、そうかも知れないと思いながらも、結局ビデオをとったりすることはできなかった。
同じ病気で家族を亡くした友達に、後から家族で見ると励まされるから関係ない時にビデオでも撮っておくと良いよと言ってもらっていたのに、そんなことをしてしまったら「それが最後みたいになってしまうから」できないのだ。
何度でもこれが繰り返されるというような顔をしていないと過ごせなかったのだから、「最後だと分かっていたらああしたのに、こうしたのに」と言われると
いや、本当にそうなのだろうか?と考えてしまう、というただそれだけだ。
愛する人に「録音するね、ハグするね、愛していると言うね」、だって「最後だから」なんて、できないのではないだろうか。
喪うことの重さに変わりはもちろんない、ということを断った上で
突然の別れについてのこの言葉の選び方は、難しい病気で遠からずいなくなる家族を抱える人には、誤解を与える要素があるのではないだろうか?と感じた。
だって、難しい病気の宣告を受けて「最後だとわかって」過ごすこと自体が辛いのだ。
その「最後だとわかってしまう」難しさ自体を、欲しかったものみたいに歌われてしまうと「最後だとわかっていた」自分たちは突然ではなかった分ラッキーだったのではないだろうか?事故など突然の別れをした人たちのほうが傷が大きいのではないだろうか?などど考えてしまう人もいるだろう。
私が言いたいのは、単に、そうではなくてどんな別れにも重いとか軽いとかは無いし、辛いことには変わりないし
だから「最後だとわかっていたら」何かしたと繰り返す歌を聞いても、
「最後だとわかっていても」何もできなかったことを後悔したり、もちろん恥ずかしいとか思わなくていいし、そういうふうにしか向き合えなかったんだからアレコレそんな言葉の言い回しに惑わされたりしたくないな、というただそれだけだ。
言葉にしなくても、同じようなモヤモヤを抱える人の多い言葉の選び方なのではなだろうか?特に音楽にのってしまったら無意識に聞くことになるし・・・。と思って書いた。