hatomi blog

つれづれ

最近全然忘れているけど前はよく耳にした「作品の強度」について

 作品を作るときの具体的な経験について思い返していてありありと思い浮かべるのは、モノとして作ることになるとどうしても最初のアイデアでは思い浮かばなかったような細部についての選択も強いられるということだ。

 よい例ではないかもしれないけれども、例えば正面から見たら椅子だけど反対側から見たらテーブルに見える、という作品(いかにもつまらなさそうな作品だ)を作るとしても、じゃあ左右はどうなっているんだとか椅子は椅子でもどんな様式の椅子にするのかとか大きさや展示空間との関わりはとか、物理的に存在させなければならない段になって突然色々と決めなければいけない項目が増える。このときに大量生産消費社会についての言及も含むからいかにもIKEAで量産されているデザインを採用するとか(ますますつまらなさそうな作品だ)はっきりとその作品によって表現したい方向を意識して選択することもあれば、なんとなく手を動かしているうちにそうなってしまったといか言いようがない決定も積み重ねられて作品は一応の完成となるだろう。

 一度作品として提示されたからにはその大まかな印象と細部とを行き来しながら他人に見られることになるが、このときに細部において重ねられている決定にブレがあることを「強度がない」とか言うのではないかと思っている。つまりコンセプトとフォームとしてはAを批判しているのに細部においてはAを無視して作品が成立しているとか。なんとなく作品を一人の人格としてみなした時に統合されていないような印象をうけ、それも自覚なしにそうなっている場合のことを「強度が足りない」みたいな話だという理解で概ね間違いないのではないだろうか。違うニュアンスで使用されることも当然あるとは思うが、だいたいのところは細部と本論とのブレが極力解消されている努力が見られるかどうかに「強度」の有無が関わっていると言えるだろう。

 「強度」というと主張している内容の強さや価値のような印象を受けるが、どんなにくだらない内容をどんなに小さくそっと主張しても当然傑作になりうるのだからそうではないはずだ。

 細部に関する決定を本論にブレなく次々を行っていく、というのはいかにも冷静に一歩離れた立場から検討していくことを求められるように思えるが、むしろその逆である場合が多いと思う。子どもが一人遊びで何もないところを指差してここが玄関でここに靴を脱いで、ここにドアがあって・・・と次々と世界を構築していくようなある種の盲目的な見立て行為が作品を作るプロセスの中にあった痕跡があると、細部に渡って一貫した「強度」が保たれていくのではないだろうか。少し没入しすぎて普通の見方がいったんできなくなった状態で「見立て」の遊びを展開しなければ扱えないほど、物質的に存在するモノはいつも人間の手の思い通りにはいかない、ということかもしれない。この文章で想定しているのは絵画や彫刻などの実在するメディウムだが、コースコードで構築されるようなものでもある程度は同じような部分もあるのではないだろうか。

 なんとなく「強度」というジャーゴンを聞かなくなったので思い出してみた