マイトレイ
昨日は久しぶりに小説を読もうという気になって、前々から読みたいと思っていた一冊の本を手に取った。ミルチア・エリアーデの処女作、マイトレイ。
アマゾンのあらすじにはこう書かれている
タブーを超えて惹かれ合う若き男女の悦楽の神話。瑞々しい大気、木に宿る生命、黄褐色の肌、足と足の交歓。インドの大地に身をゆだねた若き技師が、下宿先の少女と恋に落ちる。作者自身の体験をもとに綴られる官能の物語(『マイトレイ』)。
超有名作品なのでもはやためらうことなくネタバレも含みますが自分なりの整理と考察など
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タブーとは主人公アランが恋に落ちる少女、マイトレイの属するインド社会(共同体)が西洋出身の青年と個人の情熱を動機として恋愛することを主に言っている。
しかし同時にインドに在駐する西洋出身者達、あるいはインドに生まれ育ちルーツを西洋に持つ「ユーラシア人」たちにとっても野蛮なインド人娘と恋をすることはタブー視されている描写がある。
彼らは自らの持つバックグラウンドをお互いに拒否して、アランはヒンドゥー教に改宗したいと望み、後にマイトレイは自らの罪を問われることを恐れて共同体からの追放を望む。
この話はもちろん官能的な描写も多く、純粋に青年と少女が恋に落ちたから発生した問題をテーマに描いているが、彼ら自身がそもそも最初に生まれついた共同体からはみ出している存在であったという点が単なる恋愛小説を超えさせているのではないかと思う。
アランは真面目な青年で、堕落した西洋的な娯楽の価値観を批判、というか悲観している。マイトレイやその妹との触れ合いにより彼女たちが汎神論的な価値観を持つことを発見して研究者めいた見地から(というかアランはミルチア・エリアーデ本人のことなのだから彼は研究者なのだが)冷静に観察したかのように見せかけて、同時に強い衝撃とともに感銘を受けていることが節々に感じられる。
彼が魅了されるのは単に一人の少女というよりも、彼女の持つ深いベンガル地域に根ざした死生観でありインド社会そのものである。愛情表現の方法のひとつひとつにその深い世界が反映されていることを発見して、その豊かな表現をまとう彼女に逃れようもなくハマっていく、という感じだ。
摘んだ花を青年にプレゼントしつづける少女はと言うと、家長制度の中心である父の教えに従って青年を家族のように愛していたということが後になって明かされるものの、その言動は彼を誤解させるにあまりあるものだった。
もちろん少女のほうがタブーを積極的に犯したかったのか真相はわからないものの、アランと恋に落ちてからの彼女はむしろ彼よりも積極的に過激な行動をとっている。
(実はこの小説が出版された40年後にモデルとなった本人が同じ恋愛について自分の視点からの小説を書いているらしい「愛は死なず」というタイトルのみ見つけたものの邦訳は無いとのこと)
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最近読んだ小説の中ではぶっちぎりに面白かったです
同じぐらいかそれ以上の衝撃を受けたのはGガルシアマルケスの百年の孤独でしょうか。
恋に落ちてはなるまいと身構えた主人公の、少女を軽蔑する描写から始まりつつも周りが実は彼女との結婚を望んでいるのでは?と勘違いして抜け出せなくなっていく細かい描写が素晴らしい。
まるで自分自身がこうした自分への疑い、周囲への不信感などを経て感情を揺れ動かされているような気分になる。こういう作品に出会い、丁寧な描写をゆっくりと味わう体験はまるで自分自身がその大きな衝撃を受けたかのような余韻を残す。
しかし上に書いていて思ったのですが、誰か特定の個人に憧れたり恋をしていると感じる時に考えてみればその人の属している共同体や持っているバックグラウンドに惹かれているというのはよくある話ですね。
反対に言えば、その人のもつ背景に何も興味がないのに、個人自体には惹かれるというようなことは不自然にも感じる。
アランからマイトレイへの愛は、少女一人への愛というよりも汎神論やヒンドゥー社会への深い尊敬と愛情の反映だからこそ、マイトレイが繰り出す様々な愛情表現に毎回めちゃくちゃに心揺さぶられていたのだろうと。
ピエール・ブルデューのハビトゥスの話なのかなとか思いつつ。
我々は何者かというのはその生まれついた共同体にのみ左右されるものなのでしょうか
しかし必ずしもそうではなく、他の価値観や死生観に出会うことで衝撃を受けて自らの人生をこれまでと違ったものに動かしたいと思う瑞々しい人間が出てくる そんなところがこの物語の魅力なのかも知れません